パラレルの4話目です。

新井先輩が積極的に動きます。
はじめの設定では、いけ好かないイメージだったんだけど。
悪い人には書けなくて、篤くんのライバルになってもらいました♪






4 あたしの好きな人、あたしを好きな人

 

 

 

図書室の扉を開けると、紙とインクの匂いが鼻腔を刺激する。

この瞬間が好きになったのは、きっとあの人の影響なんだ。

 

子供の頃に触れた本は、殆どがあの人の声で読んでもらったものを覚えている。

いつも隣でページを捲るあの人の

声や息遣いや横顔をずっと忘れられずにいるのは

もしかしたら―――

 

 

 

 

「笠原?どうしたの」

「えっ!?あ、柴崎!…へ?柴崎こそどうしたのよ」

「どうしたって……生徒会の用事だけど?っていうか、アンタ当番なの?」

「うん。今日は部活が無いからね」

「…あ~ら。それは奇遇ね」

 

他の人が見たらうっとりとしそうな柴崎の微笑みを、郁はいつからか「魔女の微笑」と呼ぶようになった。その笑みをみた時、郁の背筋には冷や汗が流れるのだ。

 

「……なんだろ。嫌な予感しかしないんだけど」

「ふふ…笠原も空気読めるようになったじゃないのぉ」

「遅いくらいだけどな」

「うわぁぁぁ!!!び、びっくりしたなぁ…手塚!居るなら早く声かけなさいよ!」

「うるさいヤツだな。今、来たんだよ!出入り口で話し込むなよバカ!」

「誰がバカだ、誰が!バカって言ったら、自分がバカなんだよーだ!バカ!!」

「そのセリフ、そのまま熨斗つけてお前に返すわ、バーカ!」

子犬同士の喧嘩に柴崎が溜め息をついた時。

 

「バカ、バカ、って。なんだか兄弟喧嘩みたいだね」

 

「あ、小牧会長!お疲れ様です!!」

「時間早かったかな。大丈夫?」

「大丈夫です。資料の準備は出来てますから」

「良かった。じゃあ、始めようか」

 

柴崎の先導で図書室内に入ってきたのは、中等部と高等部の生徒会執行部メンバー。ぞろぞろと中へ進む一団の足取りを入り口扉の脇でボーっと見ていた郁が、最後の一人の足元を確認した途端に顔を上げた。

 

堂上だった。

 

思わず名前を呼ぼうと口を開きかけた郁に、人差し指一本を立てて自身の口元に寄せると、先を行く仲間たちの様子を伺うように見渡し、誰にも気づかれていないことを確認してから「久しぶりだな」と囁いて右手を郁の頭に乗せた。

いつもより少し遠慮気味に、ちょっとの時間ではあったが堂上の掌の温度を感じ、郁は自身の体温が上昇するのを確認してしまった。

 

 

図書室の奥に、ガラスで覆われた一角がある。扉は無く、目隠しになるものも無いスペースには、ちょっとした会議が出来る程度のテーブルと椅子が配置されていて、ここで委員会の話し合いなどをすることが多い。

今日は中・高等部の生徒会が合同で会議をすることになっていたようだ。

郁はその一角を視界の端に捉えながら、自身の仕事――図書委員として、返却本の手続きや配架作業などをゆっくりと熟していた。

 

 

 

「笠原さーん!」

 

背後から突然呼ばれて、郁は「ひぃぃ!」っとお化け屋敷で何かに遭遇したかのような声を上げてしまった。

 

「ぐはっ!!なんて驚き方……くくく……」

「やだ、小牧会長?このタイミングで上戸とか、やめてくださいよー!」

「ちょっと、もう!笠原、何してくれてんの!」

「は?な、なによぅ!あたしは何もしてないし!って言うか、初対面なのになんで笑われるのか分かんないよー!!」

「くく…あぁ…そうだっけ、ね…ごめん、初めまして、だ」

 

片腹を押さえながら、右手を郁の前に差し出す小牧は、懸命に崩れそうな体を支えているようだ。

郁はどうしたらいいのか分からないながら、とりあえず右手を出して握手に応じ、その時にチラリと堂上を見た。――特に何も無かったが。

 

「でもね、俺にとっては初めましてじゃなくてさ」

「え?」

「応援に行ったんだよ。君のレース、見たよ。堂上と」

「えっ!あ、ど、堂上先輩と?!」

「うん。見事だったね。予選突破おめでとう」

「…あ、ありがとうございます!」

 

小牧は、目の前で深々と頭を下げる郁の、その頭に手を乗せた。

途端に郁が上半身を起こし、両手で頭を隠すようにした。小牧に「何をするんだ!」というような眼をして。

そして、部屋の奥では立った勢いで椅子を倒しそうになっている堂上がいた。今にも飛びかかりそうな怒りも含んだ気配に、小牧は少し意外といった表情で柴崎と目を合わせた。

 

「あぁ、ごめんね?馴れ馴れしかったよね」

「っ…すみません。……頭撫でていいのは、一人だけなので」

 

それは小牧にしか聴こえない声で。呪文のような囁きを小牧は逃さなかった。

 

「一人だけ、なーんて。それはさ………………」

 

耳元に顔を寄せられ、皆に聞こえないように囁かれた言葉に、郁は真っ赤になりながら首を振るしか反応できなかった。

郁の慌てた様子を見ていた堂上は、小牧が放ったであろう爆弾の正体が気になるが、そんな素振りを見せるわけにもいかず悶々とするばかり。

 

「ごめん、ごめん。もう委員活動終了の時間だよね。鍵は俺が預かるから、笠原さんは帰宅してOKだよ」

「あ、そ、そうですか。では、よろしくお願いします」

 

また深々と頭を下げたところで、郁はガバッと上体を起こす。それは先程の行為を二度とさせないという意思表明のようで、小牧は軽く吹き出した。

自分の心の内を読まれたと気付いた郁は、恥ずかしさから動きが素早くなる。貸出しカウンターへ引っ込むと、ガサゴソと何かをして「では、失礼します!」と奥の会議ブースに声を届かせて一目散にドアへ向かった。

小牧たちの「気を付けてね~」という声には「はいっ!」っと短い返事で済ませ、嵐が去るようにさっさと部屋を出て行ってしまった。

 

 

 

 

 

――こ、小牧先輩、何を言い出すんだか!

 

 

廊下を急ぎ足で進みながら、郁は先程の小牧の囁きを脳内再生していた。

それは、無自覚だった自分に何かを知らしめる言葉。

 

あの言葉に即座に反応して赤くなってしまった自分は、きっともう何かに気付いていたことを隠すこともできないだろう。

 

 

――隠さない選択肢って、一体どうなるの?

 

 

不安しか浮かんでこない状況に、更に不安になる。

それもこれも全部、小牧の言葉が『悪魔の囁き』だったからのように思えて、少し恨みがましく思ってしまった。

 

溜め息をひとつ零す。

吐息に気持ちを溶かして。

 

 

 

 

 『一人だけ、なーんて。

 

  それはさ……

 

  君の王子様、なのかなぁ?』

 

 

 

 

 

郁が帰った後、しばらくして小牧と堂上を除く生徒会執行部員も帰宅となった。

図書室に残って資料の整理をし、中等部生徒会担当の教務主任に提出する準備を終えると、小牧は貸出しカウンターへ鍵を取りに向かった。

 

「…あー。これを書いてたのか」

小牧はノートを開いて堂上へ見せる。

「当番の日誌だね。ちゃんと、俺に鍵を任せて先に帰ることが書いてある。あの短時間で、きちんと仕事して帰るなんて。結構しっかりした子なんだね」

「…それは母親の影響だな」

「へえ。ちゃんと躾されてるんだ」

「母親は厳しいくらいだな。あいつは4人兄妹の末っ子なんだが、上の3人は男ばかりで、あいつは待望の女の子だったんだ。だから何かにつけ『女の子らしく』って言うのがおばさんの口癖で。でもやんちゃな男3人の後をくっついてたら、お淑やかな女の子になるなんて無理に決まってるだろ?」

「まあ、確かに難しそうではあるね」

「お前、中学校で一緒だった翔を覚えてないか?」

「しょう?……あ、笠原翔!ああ……笠原ね」

「お前は2・3年の時は翔と同じクラスにはなってなかったから話をすることも無かったが。翔の妹が郁なんだ」

小牧は納得がいったような表情をした。

「翔と俺が遊ぼうとすると、必ず郁がついてくる。翔は自分の遊びに夢中になってくると、郁の存在を忘れるんだよ。だから俺が相手をするわけだ。その時、俺の頭の中にはおばさんの言葉が浮かんでくる。『女の子らしく、女の子らしく』…何をしたら女の子らしくなるのか、考えに考えて俺が選んだのは本だ」

「本?」

「絵本とかを読み聞かせてやってた」

 

小牧は「へえ~」と感心した後、「だから本が好きで、図書委員になったのかな」と独り言のように零した。堂上はそれには答えなかった。

 

「ところで小牧。お前、郁に何を言った?」

「……ね、堂上。あの子のことはどうなってんの?」

「は? あの子?」

「去年、執行部で慕ってくれてたあの子」

「……それ、今は関係ないだろ」

「いや、大アリだね。お前の恋路を応援するかしないか、決め所だからね」

「おい!恋路ってなんだよ!」

「堂上の気持ちが誰に向いてるのか、確認って意味さ。お前が今、一番大切に思っている子は誰なの?」

 

ズバリ、直球な質問に、堂上は声を失くした。そんなことを聞かれるとは思ってもみなかったし、自分自身、これまで真剣に考えたこともなかった。

郁が日常に現れて、封印していた気持ちが動き出したような気もする。だが、それは封印したのだ。動き出したのを目を瞑って無視していいものなのだろうか、と考える。

 

「少なくとも、執行部のあの子とは何も無かった。気持ちに応えてやれるだけの余裕も無かったし」

「余裕があるかどうかじゃないよ。気持ちがあるかどうかだろ。堂上、そこを間違えると大切な物を失うよ?」

 

小牧の忠告は堂上の心を抉る。痛いところを突かれたのだ。

 

「俺、言ったよね?新井は本気だって。アレ、冗談じゃないからね。お前は指を咥えて見てるといいよ」

「……随分な言い方だな」

「2人の関係を隠すと決めた時点で、お前にはあの子を守ってやる資格は無いってこと。早く気付くべきだったね」

「既に俺は間違いを冒していて、大切な物を失ってると言いたいのか」

「正解!分かってるじゃない。だから、あの子の気持ちには気付かないフリしててね」

「あの子の気持ち?」

 

ま、いいから、っと小牧はノートを戻し、鍵を片手にカウンターから離れた。

 

 

何とも言えない複雑な気持ちだけが堂上の胸の内に残る。

どうしたらいいのか分からないという素直な思いも、今の小牧には聞いてはもらえないのだろうと諦めた。

 

 

 

 

 

「笠原!もう一本!」

「・・・はいっ!」

 

肩で大きく呼吸を整える郁が、足早にスタート地点へと戻っていく。新井は三上コーチの横で分厚い紙の束を丁寧にめくりながら、郁のフォームをチラチラと見ていた。

 

「中学1年とは思えない、綺麗なフォームですよね」

「あれは見惚れるよなぁ」

 

自分の視線の先を見つけられていたのかと、少し焦って三上を見れば、彼の視線が郁を追っていた。どうやら三上自身のことを言ったようだ。

 

「・・・気持ちは分かりますが、他の部員も平等に見てくださいよ。また揉めるのは御免ですからね」

「分かってるよ。お前の苦労は、俺が一番知ってるからな」

 

三上の左手が新井の頭に乗って、わしゃわしゃと撫でられた。

中学入学の時からお世話になっているコーチだ。いつまで経っても子ども扱いをされていて、新井はその点だけ少し不満ではあった。

 

「なあ、新井。お前、高校卒業後はどうするのか決めたのか?迷ってるって話してたのは、冬だったよな」

「あぁ・・・それなら、エスカレーターに乗っかりますよ」

「陸上、辞めるのか!」

「はは!ここの大学だって、陸上部はあるじゃないですか」

「そうだが・・・万年弱小部って揶揄われてるようなところだぞ。本格的な陸上競技は無理だと言っただろ」

 

三上の目はもう、郁を捉えてはいなかった。真剣に新井と向き合って話そうとする態度は、いつにも増して紳士的だ。

 

「俺・・・指導者になろうかと思ってるんです」

 

新井の言葉に、三上の表情が曇った。

 

「お前、選手としての自分を諦めんのか」

「そこそこイケるとは思ってたんです、ついこの間まで。春に、笠原って存在を知って、諦めつきました」

「・・・そうか。お前も知ってしまったか」

「何をです?」

「育てたいと思う選手に出逢っちまった、ってことだよ。俺が、5年前にお前を見てそう思ったのと同じ気持ちだ」

 

そしてまた頭をぐりぐりと撫でられる。それはもう、飼い犬を構っているかのようだ。でも、新井は嫌ではなかった。兄のように慕ってきた三上の背中を見ていたから、指導者の道も悪くないと思えていたのだから。

 

「時に、新井」

「はい」

「お前、笠原のことが好きだろ」

「っ!!コ、コーチっ!!」

「バレバレなんだよ。だからな、俺から一つアドバイス。あいつの全部を受け止める覚悟が出来たら、指導者の道でも何でも、お前が進みたい方へ進め。将来のことも、笠原に告ることも、お前の好きにしろ」

「え、いいんですか?俺、笠原に告白とか止められると思ってました」

「よくねーよ!恋愛に現を抜かすようなら殴ってでも止める。だが、お前が笠原をフォローするって言うなら話は別だ。お前にしか出来ない笠原のバックアップを期待してる」

 

普通に恋愛するより、俄然ハードルが上がってるじゃねーか!と心の中で毒づきたい気持ちだったが、三上の期待を裏切りたくないという思いも平行して存在した。

ヤル気が漲った眼をする新井を見て、三上は優しく笑う。

 

 

「上手くいけば言う事ナシ。ただし、フラれたとしても笠原を潰さないでくれよ!」

 

 

それは俺が凹む場合の話じゃないか、と愚痴りたくなるエールだった。

 

 

 

 

 

部活終わりの郁が校門へ向かって歩いていると、後ろから金属音が近づいてくるのが聴こえた。自転車だな、と脇に寄ろうとした時、近くでブレーキ音がした。

 

「笠原、一緒に帰らないか?」

「あ、部長!お疲れ様です」丁寧にお辞儀する。

「ああ、お疲れ。今日は結構走らされてたみたいだけど。タイムはどう?」

「入学前よりは良いです。ちょっとフォーム改造してて。今はそれを定着させることに集中してます」

「そっか。三上コーチ、話しやすいだろ?」

「はい!とっても分かりやすく説明してくださるし、時々オヤジギャグで笑わせてくれるし。楽しいです」

 

郁の「楽しい」は、心の底からの気持ちだと分かる。今にも跳ね出しそうな一歩を引き留めたくなってしまう。

 

「困ったことは、あれから無いか」

「・・・大丈夫です。色々ありがとうございます」

「一応、中等部の部長にも忠告してあるから、大丈夫だとは思うんだが。もし何かあったら、俺に言ってくれ。これでも総部長だからな」

「・・・ありがとうございます。あたし、部長のこと尊敬してます」

「え?」

「あたしと同じように、中等部から陸上特待生だったって聞きました。期待されて、ちゃんと成績も残してて。部長の精神力とか、ホントに凄いって思います。あたしに真似できるかなぁ」

「笠原なら出来ると思うぞ。ってか、俺以上に出来るだろ」

「・・・ちょっとプレッシャー感じるんですケド」

「そのくらいが丁度いい。なーんにも感じないなんて、人間じゃないだろ」

「ふふふ・・」

 

駅へ向かって歩みを進める郁に合わせて、新井はゆっくりと自転車を押す。視線は意識して前に向いているが、郁の声を聴いていると横顔を見つめたい衝動に駆られる。

 

「・・・笠原ぁ、あのさ」

「はい?」

 

無防備な返事に、一瞬躊躇した。

この子を自分のモノに出来るのだろうか――そうしたい気持ちは溢れる程あるのだが、新井には一つ、ずっと気になっていることがあった。

 

「笠原は、堂上のことどう思ってる?」

「へっ?!」

 

それは予想外の質問で、郁は驚きと困惑の表情を露わにした。

 

「ごめん。いきなり過ぎて困るよな。あのな、俺、知ってるんだ」

「・・・何をですか」

「笠原と堂上って、近所?・・・いや、お隣さんじゃないのか?」

「ど、ど、どうしてっ!?」

「住所、だよ。部員名簿見てて、あれ?って思って。前に、俺の実家から堂上の家に荷物送ったことがあったから、調べてみてさ。同じ町じゃんって。いや、番地も、これは隣じゃねーか?ってな」

 

やっぱりな、と新井は納得したように何度も頷いた。

 

「それで思ったんだ。何で初対面みたいなこと言ったのかな?って。もしかしてさ、堂上にそうしろって言われたのか?」

「・・・あ、堂上先輩は、学校の決まりを教えてくれただけです」

「まあ、分かるけどさ。でも、俺や小牧には別に話してくれても良かったのにって思うよ。二人のこと、言いふらしたりしないしさ」

 

郁は申し訳ないのと、悲しいのとで顔を上げられなくなる。自然に足は止まった。

 

「あ、ごめん!笠原を責めるつもりはなかったんだ。ただ、確認したかっただけ。二人が特別な関係で、それを隠したくて黙ってるのかな?って思ったから」

「そ、そんなことは無いです!」

「そうなの?ただ単に、堂上は騒がれるのを避けたのかな」

「そう、言ってました」

「ふ~ん・・・じゃあ、あいつは降りたってことだな」

「え?」

「いや、何でもない」

 

新井に促され、再び駅へ向かうべく歩き始める。

目的地に着くまでの間、新井が長野出身で今は学校の寮で生活していることや、地方出身者ばかりが集まっている寮内の可笑しな話などをして和やかに歩いてきた。

 

「なあ、笠原。単刀直入に言うぞ」

「・・・なんですか?」

「俺、お前のこと、好きだわ」

「へっ!?」

 

郁の反応に、新井は吹き出した。ここが駅前で、結構な人が居ることなどお構いなしだ。

 

「うん、ホント、好きだ。その素直な反応も。きっとビックリして、今は何も考えられないとは思うけどさ。ゆっくりでいいから、俺とのこと考えてくれないか」

 

真っすぐに見つめてくる新井の視線に、郁は目を逸らすことが出来なかった。

恥ずかしさは存分にあったが、それよりも新井の真剣な瞳が、郁のハートを掴んで離さなかった。

 

「考えてくれよ、な?・・・俺は、笠原が好きだ。お前は――― あ 」

「ん??」

「堂上―!」

 

新井が郁の背後に向けて声を上げた。呼んだ名前にドキンと郁の心臓が跳ねる。

呼ばれた相手は静かに近付いてきた。郁の存在は数歩手前で気付いた。

途端に眉間に皺が寄る。新井はそれを盗み見た。

 

「堂上、今帰りか」

「ああ。陸部も随分遅いんだな」

「最後にミーティングがあったんだよ。な、笠原」

「あ、は、はい」

 

堂上を見ずに返事をする郁は首まで真っ赤になっているが、これが堂上の登場でこうなっているのか、はたまた新井の告白でこうなっているのか、全く分からなくなっていた。

 

「あー、俺、寮の食堂の時間に間に合わなくなりそうだわ。笠原、今日はこれで」

「あ、はい。お疲れ様でした」

「ん、お疲れ。堂上、悪いんだけど、笠原のこと頼んでいいか?電車の方角、同じだと思うんだが」

「えっ!そ、そんな、大丈夫です!」

「いいから、いいから。ちょっと遅くなったし、とりあえず一緒のとこまで。な?」

 

ちょっと強引に郁を説き伏せて、堂上に同意を求める。堂上は小さく「ああ」と答えた。

新井は郁の耳元に寄る。

 

――お隣さんって話は、知らないフリするから――

 

囁いて体を離すと「じゃあ、また明日」と手を挙げて、颯爽と自転車で走り去った。

 

 

 

 

沈黙が二人の間に見えない壁を作っているようだった。

郁は終始俯き加減で、堂上の顔を全く見ないし、堂上も眉間の皺はそのままで、腕を組んで郁の靴のつま先を見ていた。

 

二人が降りる駅の二つ手前で、ドッと乗客が駆け込んできた。郁と距離を取っていた堂上が、すかさず傍に寄って郁を囲うようにした。

あまりの近さに郁はドキドキするばかりで、やはり顔を上げられない。

 

「・・・笠原、ちょっと我慢な」

「は、はい。アリガトゴザイマス」

 

自分たちが幼馴染だなんて誰も気が付かないだろうと思うと、ちょっとしたスリルがあって楽しくも感じた。

だが、本当の気持ちを認めてしまえば、今の微妙な距離が悲しくて苦しくて仕方が無かった。

 

それは、郁も堂上も同じ気持ちだったのだが―――

 

 

 

 

 

「笠原、新井と何を話してたんだ?」

 

俺は何気なく聞いたんだ。

二人の別れ際に、新井が妙に馴れ馴れしく郁に近付いたから。

今の俺には踏み込めない、境界線を越えた距離を新井が簡単に縮めたから。

 

そう、本当にそれは、何気ない質問だったのに――

郁の反応は、今まで見たことのない、女の顔をしたものだった。

 

「あ、あの、えっと・・・」

「・・・すまん、話さなくていい」

 

 

絶対に聞いてはいけないと、誰かが俺に囁いた―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

篤くんは、ちょっとだけ緊張してるように見えた。

あたしのドキドキが伝わったのかな?

二人で家に帰るの、初めてなんだもん。ドキドキする。

新井先輩には悪いけど、ラッキーって思ったの。

 

あ――新井先輩。

初めて男の人に「好きだ」って言われた。

それは夢見てたことだった。だから嬉しい。

嬉しいはずなのに・・・あたしは困ってる。

どうしたらいいんだろう。

 

 

「笠原、新井と何を話してだんだ?」

 

――っ!!

篤くん!そんな目で見ないで!!

本当は話したいのに。でも絶対に篤くんには話せない。

 

「あ、あの、えっと・・・」

なんて答えたらいいんだろう。

「・・・すまん、話さなくていい」

 

やだ。やだやだやだ!

篤くん、離れて行かないで!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

郁が家に着いて間もなく、新井からメールが届く。

 

【今日はごめんな。次は俺に送らせてくれ】

 

新井の優しい強引さに、郁の心は揺れ始めた―――

 

 

 

 

 

 

 

 

【つづく】

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