「はじまりのla」シリーズの最終回です。
原作のエピソードを出来るだけ拾っていますが順番はところどころ捏造。
このシリーズの過去作に散りばめた伏線もいくつか取り込んでますので
そこらへんも捏造してます。あしからず。
タイトルは ♪ドリカム「さぁ鐘を鳴らせ」です。

最終回記念にKちゃんから挿絵を頂きました♡
そして、最後にあとがきあります。







さぁ鐘を鳴らせ

 

 

 

 

右肩からの熱に浮かされる。

あたしは今、どんな状況にいるのか、時々誰かに問いかける。

 

――いいの?これ

 

心臓が肩に移動したみたいになっていて、きっとこれ伝わっちゃうって焦れば焦るほどドキドキが止まらない。

 

 

茨城県立図書館への出動要請は、先月から聞いていたことだったけど。いざ出発の日を迎えたら緊張と不安であたしは朝からガチガチだった。

そんなあたしを心配してか、堂上教官の(みなさんが言うところの)過保護発動で、現在、茨城へ向かう大型バスの中であたしの隣に教官が座っている状況が生まれている。

 

出来れば誰にも見つかりたくないという、ホントに子供みたいな理由から窓際を避けたいと申し出てみると、教官は迷わず盾になることを選んでくれた。

「俺の隣じゃ不満か」なんて、そんなこと思う訳ないじゃないですかっ!って叫びたかったってことは内緒だ。知られたら、恥ずかしくて死ねる。

 

でも、これは失敗だったかもしれない。

別の意味での緊張感に、身が持たない気がする・・・。ヤバい、本当に心臓痛い。肩に熱もってて心臓が風邪ひく。いや、意味わかんない。

 

軽くパニくってたら、隣で教官がクスって笑った。

焦ってるのはあたしだけだ。でしょうね、でしょうね。こんなにドキドキしてるなんて、馬鹿じゃないかと思っていることでしょうね。

 

「馬鹿だとは思ってないが、あんまりドキドキしてくれるな。こっちも緊張する」

 

呟かれた言葉は、じわじわと喜びを連れてくる。

肩の心臓のドキドキ、伝わってた。それでもこんなに穏やかにいてくれた。

教官のそういうところが、一番安心できるところだなんて――本人は知らないだろうな。

 

徐々に顔が赤くなるのがわかった。きっと気付かれるんだろうけど、一応隠す方向で俯いてみる。無駄な抵抗なんだけどね。敏い人だからね。

 

「そんなに緊張するなら、小牧と変わるか?手塚じゃ・・・喧嘩になるか」

「ぷぷ・・・手塚なら気兼ねないですけど。そうですね、喧嘩になりますね。うるさくて叱られる未来が見えます」

「そこはどんな状況でも確定事項だな」

喉を鳴らして笑ってくれる。

「小牧教官は、さっきから毬江ちゃんとのメールでお忙しいようですよ」

「・・・あいつ・・」

「だから教官しかいませんね」

「消去法か」

「・・・不満ですか?」

「ああ、大いに不満だな」

 

チラッとこっちに視線を流して、意味ありげにそう言う教官はカッコいい。

――ああ、うん。カッコいいんだ

 

「嘘です、教官がいいです」

 

ちょっとだけ素直になったつもり。だけどそれは大きな一歩なのかもしれない。

何故って? 言ったらこんなに緊張感が和らいだ。

本当の気持ちだもん。教官がいいんだもん。

また顔が赤くなる気配がしたけど、もう俯かない。どうせ笑われるのがオチだし。

 

「到着まで時間がある。寝とけ。どうせ昨夜はあまり眠れてないんだろ」

「・・・それって、柴崎情報ですか」

「いや、俺の予想だが。間違ってはいないだろ?」

「・・・はい。お見事デス」

 

二度頷いたら、教官はまた喉を鳴らして笑って「寝ていいぞ」って腕組みをした。

教官も寝る体勢?それなら遠慮なく眠くなったら寝ようかな。

眠れるかな?こんなドキドキするような場面で。

 

 

 

自分の呼吸と心拍数をカウントしながら、教官の熱を感じないように気を紛らわせた。

それはまるで羊を数えているように。

 

――緊張するけど、安心する。

 

 

相反する気持ちに翻弄されながらの道のりで、あたしはぐっすり眠りについた。

 

 

** ** **

 

 

茨城へ向かう道中は、今までになく笠原を近くに感じた。

確かに隣の席に座らせたが、実質的な距離の話ではなく。

心が――近くなったと感じた。

 

俺自身、少しだけ言動を素直に気持ちに添ってみる。

そうすることで何が変わるかわからずにいたが、結果は笠原の反応で知った。

笠原も素直に心を開くのだ。

 

素直な笠原は思考がダダ漏れる傾向にある。

緊張してるのが伝わってきて、思わず笑ってしまった。生まれ育った町に帰るだけのことなのに、と思ったが、笠原の緊張は別のところにあったようだ。

 

 

――そうか。俺の隣に居ることが、そんな緊張を呼ぶのか

 

その気持ちをどう捉えるべきか、悩むところだ。

ついつい自分に都合のいい解釈をしてしまいそうになるのを阻止しながら、今まさに肩に顔を落としてきた笠原の呼吸に合わせて、俺の意識も落ちる感覚がやってきた。

 

 

――今は深くは考えない

 

 

大きな仕事が待ち受けている状況で、笠原との関係をどうこうしたいとは思わない。

それでも、俺の中の何かが音を立てていると確信する瞬間は訪れていて、それに気付きながらも平静を装うようになってきたのはいつからか。

もう長いことそうしているようにも、つい最近からそうしているようにも両方思える。

 

 

――自分を誤魔化すのが下手になったな

 

 

自嘲する。その瞬間の俺は至って素直だ。

 

深い呼吸を一つ吐いて、左肩の重みに温かな感情が宿る前に眠りに就くことにした。

 

 

 

 

 

◆◆

 

 

特殊部隊一行が茨城県立図書館周辺の敷地に近付くにつれ、感じていた不穏な空気の正体を知ることとなった。

静かに郁を起こした堂上は、郁自身が抱える不安と今回の任務に付き纏うであろう不安を少しでも軽くしようと、殊更丁寧に確認済みの状況を話して聞かせる。

 

「ヒエラルキー?」

「ああ、階級による支配構造のことだが。水戸準基地を含めて、茨城県内の図書館界で当然のように広がってるそうだ。ここでは階級のみならず、職域も関わっているらしい」

「職域・・・業務部と防衛部、みたいな?」

「図書館員が一番上。防衛員は下らしいぞ」

「な、なんですか、それっ!」

 

郁の怒りはご尤もではあるが、それをこの場で披露しても仕方がない。堂上に窘められ、瞬時に肩を落として小さくなった。

飼い主に叱られた子犬のような反応に、通路を挟んで話を聞いていた小牧は笑う。

 

「笠原さん、気持ちはわかるよ。その怒りのパワーを持続するのは大変だし、怒りのまま相手陣内に乗り込むのは危険かなーって思うよ」

「みんなお前と同等の思いはある。その怒りをぶつける場がいつかきっと来るから。それまでしっかり溜めこんどけ」

「・・・はい」

 

狭い座席で隣同士。いつものように頭を撫でてもらえるような余裕はなく、郁はちょっと寂しい気持ちで肩を窄めた。

すると、右腕の肘のすぐ上に体温を感じた。

横目でチラリと見ると、腕組みをした堂上の右手が触れている。

たったそれだけのことで体温が上昇するのを感じ更に深く俯くと、ゆっくりと2度その場で堂上の掌が跳ねた。

 

 

  ――大丈夫

 

 

伝わる気持ちはいつもと同じだ。

思わず勢いよく顔を上げて堂上を見ると、ちょっとバツが悪そうにしながらもコクリと頷く。

郁は赤くなる頬を隠すことなく笑顔を作り、そのまま堂上越しに窓の外を見つめた――

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

水戸準基地に足を踏み入れてから、タスクのメンバーは居心地の悪さを感じていた。

元々は水戸の防衛方だけでは警備不可能だということで、県展の曰くつきのメイン展示物に良化隊からの妨害が入った時の為に呼ばれたのだ。丁重に迎え入れられて当然と思う所、完全なアウェーで疎外感が半端ない。

 

「ほんっとにムカつくんですけどー!」

「どうしようも無い奴らだな。自分たちの立場が分かってないみたいだ」

「進藤一正!ここの隊員たち、ヤル気も感じないんですよー!酷くないですかぁ?」

「よしよし、笠原。お前のヤル気はな、俺が狙撃訓練で発散させてやるから」

「げっ!!そ、狙撃は・・・遠慮シマス」

「なんだよー。急にヤル気失くすなよー」

「「あははははは!」」

 

宿舎となる独身寮の部屋に散る前、郁は殊更明るくメンバーと会話を楽しんだ。

寮となると必然的に郁は一人になってしまう。それを心配していた堂上には、どうってことないと返事をしていたものの、やはり初日の初対面となると緊張を隠せなかった。

 

「笠原、忘れてないよな」

「・・・はい」

 

別れ際、堂上が声を潜めて確認に来てくれた。約束のことだと、郁はすぐに気づいた。

 

――何かあったら俺に言え

電話でも、メールでもなんでもいい

 

堂上からもらった言葉は、郁の心の引き出しの一番上に仕舞ってある。用がなくても開けていい引き出しだ。

そこには元気になれる言葉が沢山詰まっていて、郁はそれだけで気持ちを浮上させることが出来ると信じて疑わなかったし、実際にかなり助けられていた。

 

「つまらない事でも、話していいんですよね?」

「ああ――それも約束だったな」

 

堂上にも忘れられない郁との約束がいくつかある。

お互いにその存在を確認することが出来ただけで、くすぐったくなるような温かい気持ちになっていった。

それを郁に伝えるかのように、堂上の手は自然と郁の頭に乗り、撫でて弾ませる。

 

周囲はその特別な儀式を密かに見て微笑んでいた。

 

 

** **

 

 

水戸準基地の女子寮への第一歩は緊張したものだった。

先入観もあったのかもしれない。図書隊入隊時より緊張したような気がしていた。

宛がわれた一室は食堂や洗濯場に近い、来客用の部屋だった。簡素な室内で一息吐くと、急にお腹が減ってきた。まずは腹ごしらえだ、とばかりに気持ちを上向きにしながら部屋を出てみる。

 

ところが。

廊下で隊員たちの動向を見ているうちに、気持ちは再び下降の一途だ。

 

――この感じ。あの時みたいじゃん

 

郁が感じた「あの時」とは、査問を受けていた時期のことだ。

噂ばかりが先行し、それまで郁の味方として笑っていた人物にさえも距離を置かれてしまっていた頃。女子寮の中で郁は、いつも孤独を感じていた。

あの時の冷たい視線を―――ここでも感じ取ってしまった。これがヒエラルキーに付いて回るものなのか、と女特有の世界を少し呪った。

決して屈するつもりはないが、事を大きくしないようお達しがあったばかりだ。ここは大人しくしているに限る、と腹に力を入れなおして気配を消すような歩き方で食堂へ向かった。

 

「ちょっと。アンタ、何なの」

「・・・は?」

 

明らかに自分に声をかけているのだと分かってはいたが、その横柄な態度に一瞬切れそうになってしまって言葉を呑んだ。

 

「何って・・・関東図書基地図書特殊部隊の者だけど」

「そんなのはどうでもいいのよ。なんでここに並んでるのかって聞いてるの!」

「・・・お腹が空いたから?」

「ちょっ!馬鹿にしてるの?!」

 

馬鹿にしてるのはどっちだ!と叫びそうになったところへ、横から一回り小さなフォルムの子が割って入ってきた。「ごめんなさい!ちゃんと説明してなくて」と慌てながら。

 

郁は腕を引かれて食堂の列から遠ざけられた。人が居ないところを探すように歩く目の前の隊員の様子を気にしながら「あたしの部屋に行く?」と聞いてみる。何となく、敵ではないと勘が働いたのだった。

 

 

** **

 

 

「私は水戸本部防衛部の野々宮静香です。防衛部長からタスクフォースの皆さんのお世話をするよう言いつかってます。なので、ここでのルールとか・・・早くお話しておくべきだったんですが・・・」

 

郁より小さな体が更に小さく背中を丸める。そんな姿に郁の胸にはチクリと何かが刺さる。

野々宮自身が自分の存在を殊更薄く、小さく、目立たぬように縮こませるのは、水戸で起きているヒエラルキーが原因だと理解は出来たが、それはとても悲しい事実だ。まさか自分の生まれ故郷が、そんなくだらない差別をするような環境になっていたなんて。

 

「状況は何となく聞いてる。こんな歪んだ体制なんて、きっと近いうちに無くなるから!」

 

ついつい感情的になってしまう。力を与えたくて、強く言い放ってしまった。

そんな郁の言葉に、野々宮はそっと笑う。

 

「ありがとうございます。笠原さんは、私たち女子防衛員の憧れです。そんな人から元気を貰えるって・・・嬉しいです。みんなにも笠原さんが味方になってくれてること、話しておきますね」

 

郁は何か変えられるわけではない。ただただ言葉を伝えるしか方法が無いのに感謝され、少しばかり居心地が悪かった。

その後、野々宮は水戸の現状と寮内での暗黙のルール、その対策などを郁に教え、「県展が終わるまでは一緒に行動した方がいいかもしれませんね」と言って、郁の部屋に越してくる準備を始めた。

 

少なくとも、このおかしなヒエラルキーに対抗するのは自分一人ではないことに、ちょっとだけ安堵する郁だった。

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

翌日、関東に残っていた特殊部隊の隊員たちが、全装備を伴って水戸入りした。

このただ事ではない状況は、普段は任務だけに集中する郁をも緊張させるだけの威力を持つものだった。

特殊部隊全投入するような案件になっていること。それだけ水戸の防衛部員は使いものにならず、このままの状態で県展を迎えれば大失態を晒すことになるであろうことは一目瞭然だ。

現時点で水戸を牛耳る須賀原館長には、玄田が今後の上層部判断の予想も付け足して脅しておいた。それでも尚、武器装備を進める特殊部隊の在り方に不満を漏らし、独自の路線を展開しようと足掻く須賀原に、玄田たちは諦めムードになっていった。

 

須賀原のことは無視しても、水戸の防衛部を見放すことは出来ない。警備本番までに防衛部レベルの底上げをしなければならず、それを一手に任された特殊部隊の面々は、10日余りの短い時間でどこまで出来るのか不安な要素しか見つけられなかった。

 

「射撃レベルは現笠原」

「・・・はいぃ?」

 

進藤の一言に郁が顔を強張らせた。

 

「ここの防衛部員の射撃レベルは、頑張っても今の笠原止まりだ」

「んー。最前線は厳しいけど、何とか敵陣の侵攻を妨げてくれるだけの仕事は出来るかなぁ」

「頭数合わせってだけでは困るからな。当日まで、徹底した訓練を続けてもらうぞ」

「了解っす!」

「女子もな、遠慮せずに鍛え直すから。覚悟するように言っとけよ、笠原!」

「えーっ!可哀想・・・」

「何言ってんだ。お前だって新人の時に熟してた訓練だろうが!今はもっと厳しい訓練やってるだろ。防衛員なのにサボってた奴らが悪い」

「んー、でもぉ。みんな、サボりたくてサボってたんじゃないですよ?仕方なかったんですよー」

「だとしても。自主練とか出来る限りを尽くさなかった責任ってもんもあるぞ」

 

郁は改めて思う。図書特殊部隊のメンバーは元々の意識が高い。周りに流されて自己を甘えさせるのを嫌い、殊更厳しく追い込むことを厭わない。自己責任として己を鍛え続けてきている先輩たちを尊敬するとともに、そういった高い意識を持つことを背中で教えてくれていたことへの感謝。

 

――あたしは恵まれている

 

水戸にそういう隊員が居てくれたら、こんな状態にまで落ちぶれることはなかったかもしれない、と思い至ると、更に自分の恵まれた環境が特別なものに思えて仕方がない。

 

 

** **

 

 

「こんなに厳しい訓練、久しぶり!体はすごく疲れてるけど、なんていうか・・・爽快感があるの!よく食べて、よく眠れそう」

「うん、わかる~!限界までやり通したって、達成感かなぁ」

 

食堂や風呂場で姦しく話をしていた郁たちは、程よい疲れに幸福感を得ていた。

初日の夜、野々宮が郁の部屋に越してきてから、防衛部の数名と意気投合した。同じ歳で、郁が茨城出身だと知れると、みんなは更にテンションを上げて喜んでいた。憧れの人は地元のスターと言わんばかりの輝く視線に、郁は本当に居た堪れなかった。

だが、それと共に共通の意識も持てた気がする。仲間としての一体感も感じるのだ。

 

風呂から上がり、そのまま団体で屋上の洗濯物干し場へ向かった。昨日の戦闘服などが乾いているはずだ。

 

「―――え?な、なに、これ」

 

野々宮の困惑の声が聞こえてきて、郁は彼女たちを掻き分けて前へ進んだ。

郁の洗濯物だけ、水滴を滴らせながらそこにぶら下がっている。他の隊員のものは軽く風に靡いていた。

 

「はぁ・・・ここまでは予想外だったなぁ」

 

郁は戦闘服の袖を持って絞りながら、諦めの溜め息を零した。

濡れた掌を振って、Tシャツで軽く拭き取るとスマホを取り出す。すぐに発信して3コールで繋がった。

 

 

「どうした」

 

声を聴いて泣きそうになった。こんなこと大したことじゃないと思ってはいるが、着信だけで臨戦態勢になるこの心配性の上官の、たった一言はいつも通りなのに、それがいつもより優しく聴こえたのだ。

きっと、今までも優しさが溢れていたのかもしれないが――そんなことを気付かせるような状況ではなかったという事か。

 

喉の奥を意図的に詰まらせてから「女子寮で嫌がらせに遭いました」とだけ告げた。

堂上は深く息を吸ったようだった。そしてどんなことがあったのか、変わらぬテンションで聞き返してくれた。

 

「そうか。洗濯物全てとなると、男子寮の乾燥機を使わせるのは却下だな。コインランドリーでも探すか」

「あ、なるほど。じゃ、笠原、ひとっ走り行ってきます」

「アホかっ!それも却下だ。隊の車を借りるから、お前は洗濯物持って玄関に降りて来い」

「えー!それなら笠原一人で行ってきますよー」

「だから、隊の車を運転出来るのは三正以上。お前にその資格は無い!ついでに言えば、こんな暗い時間に女一人で外に出せるかっ!」

「・・・あ、アリガトゴザイマス」

「ん。それでいい。じゃ、10分後に玄関前な」

 

郁は通話を終えると野々宮たちに向かって眉を下げた。

 

「あたしたち、はしゃぎ過ぎたね。きっと業務部の人が気に入らないって思ったんだよ。みんな、あたしと一緒に居ない方がいい。野々宮ちゃんも、自分の部屋に戻りなね」

 

そう言って階下へ向かおうとした郁の腕を引いたのは野々宮だった。

 

「笠原さん、ごめんなさい。一緒にいたのに守れなくて」

「ううん。一緒にいてくれて楽しかったし、心強かったよ。ありがとね」

 

今度こそ郁はみんなから離れて、堂上が来るであろう寮玄関へと向かった。

夜風は冷たく、郁たちの心の隙間に滑り込むように吹き込んでいた。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

教官の運転で近くのコインランドリーまで来て、あたしは急いで洗濯物をドラム式乾燥機へ放り込み、小銭入れから数枚の100円玉を投入した。

 

「どのくらいかかりそうだ?」

40分くらいですかね。戦闘服、乾くかなぁ・・・厚手生地だからなぁ」

「門限に間に合わなくても大丈夫だ。ちゃんと乾かした方がいいぞ」

「・・・はい」

 

帰寮延長の届けまで出してくれてるとか、あたしはどんだけ教官に迷惑かけてるんだろう。

そんなことを考えてたら、教官が溜め息をひとつ吐いて「柴崎から聞いて、心配はしてたんだ」と愚痴のような一言を漏らした。

 

「え?柴崎が?」

「ああ。女子寮へはお前一人で飛び込むんだ。完全な部外者だから、査問の時とは違った攻撃があるかもしれないってな」

 

暗に「柴崎も心配してたぞ」と言いたげな口調で。それがすごく刺さった。

何が?―――何に?―――チクリ、チクリと。

 

教官と柴崎が、あたしの知らないところで話してた。あたしの話をしてたんだって。

有り難いことにそれは、揃いも揃って「心配して」くれてたんだって。

うん。

今までだって、そういうことあったよね。そんな話、聞いた気がする。

なのに、どうしてだろう?

今夜は何かが気にかかって、聞き流す余裕が無い。全然平気な気がしない!

 

自分の中の正体の分からない感情を掴みたくて、懸命に自己と対話しようとした時だ。

 

「前に――お前が査問を受けることになった時にな、緒形副隊長が言ったんだ。

 笠原がタスクの末っ子で、俺たちは運が良かったって。

笠原は素直で、真っ直ぐで。嫉妬に狂うなんて言葉は思いつかないってな。

 俺もお前を見てて、そういう女がいるってことをすっかり忘れてたよ」

 

教官はふっと笑ってみせた。優しく、穏やかに。

その表情が、あたしの心の中の黒い塊を膨らませる。ここに在るってことを知らしめる。

 

――この黒い塊は『嫉妬』だ

 

あたしは気付いてしまった。この気持ちに。

そしてその嫉妬は、教官のことを想わないと生まれないものだということも。

 

「やめてください。あたし――あたしもきっと同じです。誰かに嫌がらせとかするかもしれないです」

「お前はしない」

 

教官は、あたしの言葉に即答した。

どうして言い切れるの?教官に、あたしの気持ちなんて分かるはずない!

 

「お前は、他人を傷つけるなんてことを思いつけない。そういう人間だ」

「そ、そんなこと、わからないじゃないですかっ!あたしだって本気で―――

「いや、お前は悪意を持って他人と向き合わない。傷つけるなら、自分も一緒に傷つくような喧嘩をするタイプだ」

 

自信たっぷりにそう言われて、あたしは自分の事なのに、そうなのかも?なんて思いだしてる。バカバカ!そうじゃない!だってあたし、柴崎に嫉妬したもん!

 

「教官にあたしの何が分かるっていうんですか」

「分かるだろ。3年近く側にいるんだぞ」

 

当たり前って口調で、サラリと答えられて。

それが――なぜか嬉しくて。途轍もなく嬉しくて。

馬鹿みたいに泣けた。声をあげずに、静かに泣いた。

 

「笠原―――手ぇ、ひらけ」

 

 

** **

 

 

笠原は一点を見つめて眉を下げていた。何か、重大なことを考えている様子だ。

そして少しだけ顔の角度を上げると「教官にあたしの何が分かるっていうんですか」と不満げに言い放った。

 

「分かるだろ。3年近く側にいるんだぞ」

 

それはスラリと口から出た。当然のことだから深く考えずに、とにかく笠原の気持ちを理解して慰めることに集中していたんだ。

途端に、笠原の眼から涙が溢れては零れ落ちていった。

声を出すことを我慢するように、唇を噛みしめ、テーブルの上に置かれた両掌はギュッと握りしめられていた。関節から伸びた筋が、僅かに震えているのが見えた。

 

「笠原―――手、ひらけ。爪が食い込むぞ」

 

言って、俺は笠原の両手を取った。ビクッと上腕の筋肉が動いたかと思ったら、素直に掌を見せるように開いてくれた。白くなった皮膚に血が通う瞬間をみた時、笠原の堪えられない感情が俺の手を捉えた。

笠原は両手で俺の手を包むように握って、俯いて泣き続ける。

 

「笠原、声出して泣いていいぞ」

 

俺の声が合図になったのか、笠原は両手で顔を覆って泣き始めた。

俺の手から離れてしまったのには寂しさも感じたが、今はそんな感情に左右されている場合ではない。俺は、俺の出来る限りのことを―――と考えて、いつも通りコイツのハンカチになる。

 

「俺たちは、お前が他人に悪意を向けないヤツだと知ってる。みんな、お前のそういうところに惚れてんだ。だが、今日みたいなことがあると、お前にだって怒りは湧くだろうし、その矛先を何処へ向けたらいいのか悩むよな。それは普通のことだ。お前の心が歪んだわけじゃない。だから、自分をダメな人間だとは思ってくれるなよ」

 

俺の肩に額を付ける形に笠原の頭を引き寄せていた手を離すと、ゆっくりと上体を戻しながら顔をあげてゆく。顔を覗き込むようにして頭を撫でてやれば、また大粒の涙を零し始めた。

 

 

俺の言いたかったことは伝わっただろうか―――

笠原の純真な心を壊してほしくなかった。

出来ることなら、いつまでもそのままでいてほしいと望んでしまうほど。

何となく――笠原の純真さが、あの日の清廉な背中に繋がっているように思えて。

俺だけが知っている笠原の姿を消したくない気持ちが、あれからずっと俺の中に根付いていたことに気が付いたから、勝手だとは思ったが俺の為に笑ってて欲しいと心から願ったんだ―――

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

少しだけ生乾きの戦闘服と、しっかり乾ききった洗濯物を器用に纏めて、郁と堂上は基地へと急いだ。今後の対策として、二日に一度コインランドリ―を利用して、この困難を凌ごうということで話はついた。

 

寮に帰ると、野々宮が部屋で待ち構えており、最後まで一緒に戦うと誓ってくれた。

今後もどんな嫌がらせに遭うか分からない状況であったが、郁の存在を通して自分たちの存在価値を見出していこうとしていることが分かり、彼女たちの決意を尊重した。

 

そうして過ごした数日後のこと。

フォーメーションを組んでの訓練中に堂上班が呼ばれた。それは玄田からの指示だったのだが、実際に呼ばれていたのは堂上と郁であった。

 

「笠原のお袋さんが来てる。隊長の所でお袋さん、お前を辞めさせて連れて帰るの一点張りで、話にならないから来いってさ」

 

郁の顔から血の気が引いて、堂上を縋るように見つめてきた。

恐れていたことが巡り巡ってきたのだ。もう隠すことは何もない状態だろう。真剣に話をして理解してもらうしか方法は無いと、堂上は腹を括った。

 

「笠原、後回しにしてきたツケが回ってきたんだ。ここで終わりにしよう」

 

郁の青ざめた顔が更に引き攣ったものになった。

 

 

** **

 

 

張り詰めた空気の中へ飛び込むのは、いささか躊躇するものだ。

玄田はその空気の中で始めから戦っていたのだが、もうそろそろ戦線離脱したいところだ。

早く主役にご登場願いたい・・・と密かに祈りながら、大人対応を心掛けていた。

 

「堂上、笠原、入ります!」

 

待ちに待った。漸く役者が揃ったのだ。

だが、足音を立てずに入室した郁の姿を捉えた時、玄田はもっと自分にも出来ることがあったのではないかと後悔の念が芽生えたことを自覚する。

 

「郁っ!あなた、どうしてこんな仕事を選んだのっ!」

 

火に油―――そんな勢いで母娘の長年の戦いの火蓋は切って落とされた。

 

 

 

 

 

 

「お母さん、とにかく落ち着きましょう」

「あなたに『お母さん』と呼ばれる筋合いはありません!」

「ええ、そうでしょうとも。ですが―――

「郁っ!すぐに仕事を辞めて、家に帰るわよ!こんなところに居たら、あなた傷モノになってしまうわ!」

 

ヒステリックな叫び声が部屋中に響いて、郁は頭痛でも我慢しているかのように顔を顰めていた。郁を憐れに思った玄田は、もうひと押し、何とか母親を落ち着かせようとしたが、逆効果の様相を呈してきた。傷モノ発言には「おいおい」と小さくツッコむのみだ。

 

ぎゃんぎゃんと吠える母親を、郁は感情を露わにすること無く見つめていた。

そしてその郁を堂上は静かに見守っていた。

寿子の猛攻に若干気圧されている様に見えた郁の表情に変化が見えたのは、図書隊を卑下する発言があってからだ。

 

「だいたい、どうして本を守るなんて仕事を選ぶのよ。そんなに本が好きなら、お母さんがいくらでも買ってあげるわよ。そうよ!小さい頃から、あなたには本を買ってあげてたじゃない!こんな仕事、辞めても誰も文句は言わないわ」

「待って。お母さんに『こんな仕事』なんて言われたくない。図書隊の仕事は、誇りを持てるものだよ。確かに、あたしは本が好きで、本を守るためにこの仕事を選んだ。でもね、図書隊の仕事はそれだけじゃないの。きっと・・・お母さんに話しても分からないと思うけど」

「笠原、そこで話しても無駄だと諦めたら、お前の気持ちは微塵も伝わらないぞ」

 

郁が漸く気持ちを伝えようとし始めても、寿子の様子を見ているとその気持ちが萎えてしまうらしいことが分かり、堂上は助け船を出した。

 

「分かってもらえなくてもいいから、お前の気持ちを話せ。それを俺たちは全力で支持するから」

 

堂上の手が郁の頭を撫でる。瞬間に込み上げるものがあったのだが、今は我慢だ。

周囲に目を配ると、玄田も緒形も穏やかに微笑んで頷いている。

郁は一度、深呼吸で背筋を伸ばし、改めて母親の顔を見つめた。

 

「人の役に立つ仕事をしてほしいって、お父さんもお母さんも言ってたじゃん。図書隊の仕事は、本と本が好きな人の想いを守ってるの。人の役に立ってる仕事だと思ってる。

でも一番は、あたし自身の『本が好き』って思いごと守ってもらってるって思いが強いの。

あたしの想いは図書隊のみんなに守ってもらってる。だから、あたしはそんな仲間の想いを守りたいの」

 

堂上たちはしっかりと聞き、見守った。郁が体を震わせながら本心を語る姿を。

寿子には理解しがたい世界なのだろう。郁の話を聴くと言うよりは、声を聴いているだけのような上の空な表情が見て取れた。

 

「だからって、女の子が武器を持つなんて・・・本当に恥ずかしいわ」

 

最後の一言が、郁の理性の糸をぶった切った。

手負いの小動物のように毛を逆立てている気配が伝わり、玄田たちは少々慌てている。

 

「そうだよね、恥ずかしいよね。ごめんね、こんな恥ずかしい娘で!親戚にも、ご近所にも、恥ずかしくって話せないような子で、本当に申し訳ございませんでしたっ!」

 

郁が声を震わせながら捲し立てた言葉は、寿子の心より堂上や玄田たちに響いた。

 

誰よりも郁が一番、図書隊は恥ずかしい職業なんかじゃないと思っているのだから。どれだけの想いを捻じ伏せても、そんな言葉は言いたくなかっただろうに。

 

堂上が慰めようとした時、部屋のドアが開いて「遅くなって申し訳ありません」と声が聴こえた。

郁の父親の克宏だ。

 

「え、お父さん?」

「みなさん、この度は家内が大変ご迷惑をおかけしました」

「あ、あなた!何言って――

「郁、すまなかったね。母さんは連れて帰るから」

「う、うん・・・」

 

寿子の言葉は軽く無視して、郁へ優しく語りかけた。

 

「そうだ、昇任試験、合格したんだってね。おめでとう」

「え?なんで?」

「ちゃんと認めていただけてるってことだ。しっかり頑張りなさい」

「・・・はい。ありがとう、お父さん」

 

郁にとっては克宏も苦手な相手であることは間違いなかった。それは、郁が幼いころから圧力の半端なかった母親を宥めることもなく、追い込まれる郁を助けることもなかった父親だったからだ。

今回だって寿子と一緒になって図書隊を辞める話を進めてしまうのではないかと、一瞬恐ろしい想像をしてしまっていたのに、克宏の口からは郁を応援する言葉が飛び出したのだ。驚く以外の反応は出来なかった。

 

ありがとう、と言いながらも、郁は半信半疑だ。その気持ちが読めてしまった堂上は、部屋を出ていく克宏と寿子を見送りながら、郁にそっとカラクリを教えた。

 

「お父さんは気付いてたぞ。以前、職場見学にいらした時、最後にお前が俺に振った難しいレファレンス。あの時、こっそり言われた。『可愛い娘ですから、怪我は最小限にお願いします』ってな」

「え・・・うそぉ」

「それから時々、様子を聞きたいと連絡があって。俺は何度か話してる。士長昇任のことも、俺が話した」

 

郁は堂上の話を聞くや否や廊下に飛び出す。階段へと曲がる手前の両親を呼び止め、精一杯の気持ちを伝えた。

 

 

「こんな娘でごめんだけど。図書隊の仕事は素晴らしいって、いつか分かってほしいの!分かってもらえるように、努力するから!」

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆

 

 

郁の母親乱入のニュースは、業務部の連中によって面白おかしく広まっていった。

歪んだヒエラルキーの中で予想はしていたし、結果は悲惨なものでもなかったので、郁は全く気にすることなく寮に帰った。

郁の部屋には野々宮ともう一人、防衛部員の子が待っていた。

 

「笠原さん、ごめんなさい!」

 

いきなり謝られて、郁は驚きしか表現できない。「どうしたの」と慌てて聞くと、今日の母親乱入事件の経緯が見えてきた。郁から得た情報の中から、弱味になりそうな話を聞かせろと業務部の連中に捕まったらしい。

 

「脅されたんだね」

「・・・いえ、きっぱり断ればよかったんです」

 

俯いて、膝の上の拳を震わせて言うが、今のこの寮内で業務部に反抗するなんて無理なことは郁もよく分かっている。結果はどうであれ、正直に話にきてくれたこと、郁を守りたいと思ってくれていたことに感謝こそすれ、責めることなんて出来ようがない。

 

「あのね。母と話せてよかったよ。まだちゃんと和解できたとは言えないけどさ、自分の想いは話せたの。ずっと何年も話すことすらしてなかったのにね。だから、良かったって思うから、謝らないで。あたしの方こそ、ありがとうって言いたいくらいだから」

「っ!そ、そんなこと・・・もっと私が強ければ・・・」

「違うよ。初日の夜、ここで皆と仲良くなれて、あたしは調子に乗って自分の話をしちゃったの。あれがいけなかった。誰かに突かれても痛くない話なら、問題なかったはずだよ。あたしが迂闊だったから、迷惑かけちゃったね。ごめんね」

 

郁の謝罪には首を振って答える。

 

「ホントに迂闊なんだぁ。いつもそうなの。それで上官に叱られてるの。今に始まったことじゃないから、気にしないでー」

「上官って・・・堂上二正?」

「うん。教育隊の時からの上官だからね。あたしを成長させようと一番頑張ってくれてるんだけど、いつまで経っても迂闊さは抜けなくてぇ。叱られてばっかりだよ」

 

おどけて見せる郁に、水戸の二人は顔を見合わせた。

 

「初日の夜に笠原さん、尊敬する人を追いかけて図書隊に入ったって言ってたじゃないですか。それって堂上二正のこと?」

「え・・・」

 

郁は言葉通り、固まった。野々宮の口角が上がったのは視界の端で捉えていた。

 

「そうなんだぁ・・・笠原さん、堂上二正のこと・・・」

「・・は? ち、違うから、ね!」

「えー?何がぁ?私、まだ何も言ってないけどーぉ?」

 

ニヤニヤと攻撃の手を緩めない野々宮に「そんな子だったの?!」と慄いた郁は、真っ赤になりながら全てに否定する方法で、この難を乗り切ろうとした。

「そんなことは無駄よ」と、さながら関東に置いてきた同室の美女を思わせる台詞を言い放った野々宮は、郁への攻撃をやめる手前で爆弾を落とした。

 

「いつか想いを伝えられたらいいわね~

 

 

 

 

 

 

 

――どんな想いを伝えたらいいの?

 

  どんな想いなら伝えていいの?

 

  どんな想いなら受け入れてもらえるの?

 

 

 

  ねえ、誰か教えてよ

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

真剣に良化隊との大抗争を覚悟して準備しなければならない、と通達されたことを踏まえ、郁はある決意をして朝食の為に食堂へ向かった。

出勤時間が同じであるため、朝の食堂はヒエラルキーのルールが比較的緩い。同じ時間帯に食堂に居ても文句は言われないようだ。ただし、座るテーブルは限定されているようだが。

 

郁は食事の皿を並べたトレイを業務部専用とされているテーブルに置いた。少し目立つように音を立てて。

そうして周りの注目を浴びている確認をしたと同時に、テーブルを掌で叩いて「ちょっといいかなぁ」と声を張った。

 

「昨日はウチの母親をご招待くださってありがとう。お陰で何年振りかの親子の対話ってやつが出来ました。ほーんと、感謝してますぅ」

 

どこからか、クスクスと笑う声が聴こえた。郁は無視して続ける。

 

「ウチの母親絡みは、あたしの弱点だと思ったみたいだけど。そうね・・・今となっては大した弱点ではなかったわね。もう隠すことも無くなって、気分スッキリしちゃったから。

で、この情報をアンタたちに話した人が誰か、あたし知ってるから。昨夜、ちゃんと謝罪ももらったし、しっかり手打ちしましたのでご心配なく」

 

少し意外だったのか、ヒソヒソと耳打ちで話す輩が出てきた。

 

「で、ここからが本題。あたしが何処から来て、何処に帰るのか。アンタたち分かってるわよね?分かってて嫌がらせしてんのよね?洗濯物に水ぶっかけてみたり、防衛部の子を脅して個人情報を聞き出したり。それを使ってあたしの家族崩壊を狙ったり?それともあたしが図書隊辞める方を狙ったのかな?――ま、どっちでもいいや。

今回のことは県展警備に対する妨害行為として、関東図書基地司令に報告書上げるから。そのくらいされて当然だと分かってるのよねー?覚悟の上よねー?水戸本部の業務部の皆さんって、ホントに潔くって素晴らしいわ~!」

 

ニヤリと笑えば、若干青ざめた表情が見て取れた。

 

――ちゃんと笑え!笑うんだ、あたし!!

 

 

 

 

 

食堂を出たところで、野々宮が郁の腕を引く。興奮状態なのは気配で分かった。

 

「笠原さん!大丈夫なの、あんなこと言って!」

「大丈夫。あたしは県展が終われば東京に帰るし。それより、あたしが居なくなった後、またあいつ等が大きな顔するようなことが無いように、しっかりヒエラルキーは失くしていくよ。野々宮ちゃん!アンタたちにも頑張ってもらわないと!」

「・・・うん、頑張る。頑張るからね!」

「ん。訓練もだよー!」

「きゃ~~~~~っ!それ、今だけ忘れさせて~~~!」

 

 

県展初日まであと4日。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

郁が啖呵を切ったことは、すぐに特殊部隊隊員たちの耳に入った。

皆一様に嬉しそうな顔をした。特に玄田は「流石タスクの申し子だ」と満面の笑みを晒した。

 

水戸の防衛員再教育は、時間の無い中でもそこそこの成果を上げてはいた。だが、大規模検閲抗争となったら話は別だ。教育を任されている隊員はイライラを隠せない。残り3日でどこまで仕上げられるのか――不安が過る。

防衛員のレベルの低下は、元はと言えば蔓延るヒエラルキーが起因している。改善していくための第一歩となるかもしれない郁の啖呵は、不安を持っていた隊員たちの気持ちを浮上させるだけの力があった。

 

水戸の防衛員たちの希望となったのも郁だ。自然に訓練の士気も上がっていく。

小さなさざ波が大きな波となって良い方へと流れていく様は、この後の流れにも期待が持てる。

 

 

「笠原さん、MVPじゃない?」

「あいつの気の強さが良い方に転びましたね」

 

小牧と手塚も郁が褒められることは素直に嬉しい。そしてそれは、堂上とて同じ。

 

「水戸のレベルがこれ以上上がらなくても、士気が上がった分、こちらに分があると思えるな」

 

野々宮をはじめとする水戸の防衛員に囲まれながら笑顔を振りまく郁を見て、堂上はホッと息を吐く。これから迎える大規模抗争など、微塵も感じさせない空気が心地よい。

 

 

「きょーかん!」

「ん?」

「ちょっとだけ時間空いてませんか」

「どうした」

「裏に温室があるんです。水戸の子に案内してもらった時、覗いてきたんですけど。教官にも見せたいなって思ったので・・・今、行けませんか?」

 

器用に上目使いをしてくる郁に、堂上は軽く眩暈を覚える。それに気を取られて返事に困っていると、少し離れたところから明るく「行ってこーい」と声が飛ぶ。

ニシシっと笑ったのを聞き逃さない。進藤が郁の味方についたのだ。

 

「さっさと行って帰ってくればいいさ。ほら、行った行った!」

 

追い出されるようにして、郁と堂上は温室へ向かった。

 

 

** **

 

 

まだ初冬と言うには早い気もするが、暦の上では寒さを感じてもおかしくないのだ。

温室の扉を開けると、外気とは明らかに違う空気を感じ、堂上はちょっとだけ深い呼吸で生暖かさを身体に取り込んだ。

 

「教官、これです」

 

郁の示したのは、小さな鉢が並ぶ棚。

堂上には見覚えがあった。葉の伸び方。花の色――

 

「カミツレ・・・」

「はい。事務室のカミツレ、柴崎が預かってくれてるって。みんながこっちに来ちゃったから、ちょっと心配してたんです」

「ああ。東京には誰もいないからなぁ」

 

二人はいくつかある鉢の中から、さりげなく気に入ったものに手を伸ばした。郁は鉢を持ち上げて手の中で器用に回して見る。堂上は棚の上で角度を変えて楽しんだ。

 

「笠原、一人で偉かったな」

 

何の前触れも無く堂上が郁を褒めた。驚きながらはにかんだ郁は「みんなに安心してほしくて」と呟いた。

 

「・・・苦難の中の力、だな」

「え。あ、あたし、ですか?」

「ああ。少なくとも水戸の奴らにとっては、お前の存在が力になってる」

「そうですかぁ?えへへ・・・そう言ってもらえて、嬉しいです」

 

これ以上ないくらいの蕩けるような笑顔を見せる郁に、堂上は手を伸ばさずにはいられなかった。いつものように頭を撫でると、郁は首を竦めて猫のように微笑んだ。

 

「そういえば、カミツレのお茶の約束、覚えてるか?」

「えっ!きょ、きょーかん!覚えててくれてたんですか!」

「・・・物覚えはいい方なんでな」

「・・・どうせあたしは、物覚え悪いですよーだ」

「拗ねても可愛いだけだぞ」

 

真っ赤になる郁の横顔をそっと盗み見ながら、堂上は仕掛けるように言葉を繋げる。

 

「東京に戻って落ち着いたら・・・な」

「・・・え?」

「連れてってくれるんだろう?」

「え、は、はい!!笠原、堂上教官をカミツレのお茶のお店にお連れします!」

 

ビシッと敬礼で返事をよこす郁に、堂上はついつい笑ってしまった。

それを誤魔化すように咳ばらいをひとつして、郁の方へ向き直る。

 

「今回、お前は俺の伝令だ」

「えっ!伝令?教官の?」

「いいか、笠原。絶対に俺から離れるなよ」

 

堂上の言葉に勢いよく顔を上げ、眼を輝かせてみせた。

 

「はいっ!絶対に教官から離れませんっ!!」

 

 

 

 

 

 

――俺が離さないけどな

 

 

 

 

 

 

** **

 

 

県展初日の二日前には、県展主催者と県知事の連名で、法務省へ宣言がなされた。

いくつかの約束事と法務省へのお願いが組み込まれている。交戦規定や万が一被害が出た時の責任の所在など。これは法務省が受理する形となった。

 

着々と県展開催に向けて緊張感も高まり、図書隊としては受理された交戦規定が守られることをただただ祈るのみだ。

 

郁は改めて展示された県展の最優秀作品を見に行った。

良化隊の制服にぽっかりと空いた穴。そこからは青空が広がり、雲が流れ、風を感じるような作品だ。タイトルは『自由』。

なんて素敵な作品だろう、と郁は感動しきりだ。この作品が訴える自由は、検閲されてきた過去にも存在したはずのものを世の中の人々に知らしめる。

検閲されても『自由』は人々の隣に存在し、いつでも手の届く所で皆の手を待っている――郁にはそう聴こえてくる気がしていた。

 

本ではないけれど。

本にも平等に授けられて当然の『自由』を守るために―――

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

県展初日。午前6時――

 

図書隊、良化隊それぞれの交戦準備が整えられ、良化隊側は指揮官の号令と共に一斉発砲を始めた。その音は美術館と図書館の敷地内であちらこちらから響き渡り、慣れない水戸の防衛員を一瞬にして震え上がらせた。

 

「ビビるなっ!まだまだ始まったばかりだぞ!」

「良化隊に勢い付かせるなよ!!」

 

声を上げるのは特殊部隊の面々だ。水戸の隊員に発破をかけながらも自己を鼓舞する。一番簡単なマインドコントロールを実践して、最前線で迎え撃つ班を安心させようと懸命だ。

その時、無線から玄田の声が届いた。

 

「――発砲許可」

 

郁は、無線で拾った玄田からの指示を隣の堂上に伝える。前方を捉えていた視線が郁を横目で見るように動いて、軽く顎を引いた。

 

「発砲許可――!撃てーっ!!」

 

堂上の声が最前線の隊員たちに向けられ、図書隊側の発砲が始まった。

 

 

 

** **

 

 

どのくらいの時間が経っただろうか。郁は命令通り堂上の側から離れずに、伝令としての役目をしっかりと貫いていた。

そこへ屋上の狙撃隊から思いもよらぬ報告が飛び込んできた。

 

「進藤一正、被弾!」

 

郁は息を忘れた。堂上は気配で郁の様子の変化に気付き「どうした」と視線を動かさずに聞く。

 

「し、進藤一正、被弾。右腕に貫通痕。射撃は無理です」

堂上は少しだけ目を大きく瞠ったが、平常心を心掛けるように黙っていた。

「教官、木です。木に登って狙ったんじゃないでしょうか」

交戦中でなければ内緒話のように身を寄せるところだろう。しかしそこまでは近寄れなくても、郁は堂上の肩に自身の肩をくっつけて、より耳元に近付くようにして予想を伝えた。

その内容に堂上も納得したのだろう。珍しく口角を上げて郁を見つめ強く一度頷くと、無線に割って入って郁の読みを伝え始めた。

 

「葉が落ちていない、人が乗っても折れないくらいの太さ。図書館側にも注意するよう指示!」

>>了解

 

「あ、きょーかん・・・」

郁の小さな声も、堂上にはしっかりと届いた。同時に、郁が何を想って堂上を呼んだのかも、しっかりと分かっていた。「いいぞ」とだけ返事をして、前方の敵の攻撃に集中する。

 

 

「手塚!」

>>笠原?どうした

「手塚は大丈夫?」

>>ああ。どこから撃たれたのか分からなくて、ちょっと焦ったけどな

「補助の狙撃手が行くだろうから、それまで気を付けてね」

>>・・・了解。お前も、二正から離れんなよ

 

郁の返事を待たずに、手塚は無線を切った。それが郁には心地よく、思わずニヤリと笑ってしまった。目の前の良化隊の前線に視線を移しながら、堂上に「ありがとうございました」と告げれば、予想外なところから心配性の上官の手が伸びてきて頭を二度叩かれた。

ヘルメットの乾いた音は、郁の脳にしっかりと刻まれる。

 

 

** **

 

 

時間が経つにつれて図書隊側にはバタつきが見え始めた。慣れない水戸の防衛員との連携に、進藤の被弾。屋上狙撃手の穴埋めを考えた時、玄田は一か八かの勝負に出る。

 

「教官!狙撃手の応援は小牧教官に命令が下りました」

「チッ!・・・小牧の穴は大きいな。攻め込まれるぞ」

 

舌打ちしたい気持ちは解る。今日はバディとしてではなく、互いに水戸の防衛員を数名率いての指揮官なのだ。小牧は主に図書館側の防衛部隊を率いていた。メインとなる美術館側の前線に近いのは堂上の部隊だ。良化隊の狙いは美術館へと集中しつつあるのだが、図書館側とて気は抜けない。指揮系統を降ろして水戸の防衛員に指揮権を渡し、小牧は屋上へと向かった。途端に火力を集中されているのを確認し、堂上は小牧の抜けた隊に滑り込んだ。

 

「撃てっ!指揮官交代くらいで狼狽えるな!ここが弱いと火力を集中されたら、図書館側から雪崩れ込まれるぞっ」

「とりあえず弾の残量を後方に報告しておきます。これから先は指揮官が確認して指示してくださいねっ!」

「行くぞ、笠原」

「はいっ!」

 

水戸の新指揮官は茫然としかけて首を振った。そんな暇はないと思い至れたのは正解だったが、今目の前にいた特殊部隊の二人はそれは神々しく輝いて見えて、すぐに浮かんだ言葉は「嬉しそう」だったのだ。

言葉通りの嬉しさなんかは有るはずがない。ただ堂上と郁は、共に戦い、前線へ向かっていくことに喜びを感じられていた。

 

――それは互いに言葉は無くても

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

先に宣誓された中で交わされた交戦規定では、元から決められていた県展開催時刻の9時までには戦闘を終了することになっている。

その停戦時間まであと僅かという時、良化隊側に大きな動きがあった。

 

「教官、良化隊の部隊が美術館側に集結しつつあるようです」

「・・・実力行使、か?気でも狂ったか」

 

無線の情報を伝える郁には、堂上の言葉の意味が掴めなかった。小首を傾げていると、玄田の厳しい声が鼓膜を揺さぶる。

 

>>良化隊は美術館側の塹壕からの侵入を狙っているようだ。人が塊になって押し寄せてくるぞ!防弾盾をかき集めろ。鉄板でも何でもいい、押し返せ!

 

耳に入った言葉をそのまま伝える。伝令として感情のスイッチは切ったつもりだったが、玄田の声と目の前に繰り広げられる凄惨な光景は、郁の心を僅かに揺さぶった。

それでも、郁は指示通りに防弾盾をかき集める作業をする。その時だ―――

 

 

>>敵の戦闘能力を剥奪する。近接射撃も躊躇するな!

それから、各自の生命の防衛を最優先とする。

  いいか!残り時間は僅かだ。俺からの指令はこれが最後だ。

お前ら――――死ぬなよ!

 

 

玄田の言葉を堂上へ伝える。

これが今回の伝令としての最後の仕事になるのだろう、と郁は瞳を揺らした。

 

 

 

「笠原、お前は館内へ入れ」

 

それは耳を疑う命令だった。郁はすぐに首を振って「嫌です」と答える。

だが堂上は「命令だ」と言って背中を向けた。

 

 

 

 

 

** **

 

 

「教官!」

 

振り向いてくれない。――ヤダ!そんなの、ヤダ!

 

「堂上教官!!」

 

お願いだから、一瞬でいいから、あたしを見て!

 

「・・・いいから、下がれ」

「嫌です!絶対に嫌です!」

「笠原ぁっ!!」

 

怒気を孕まない怒鳴りは、こんなに優しいものなのか。痛いほど分かった。

 

「教官、言いましたよね?絶対に離れるなって。だから嫌です!

あたしは―――

 

 堂上教官の伝令です。

 どんな光景でも最後まで一緒に見ます!」

 

 

 

 

「―――っこの、ド阿呆がっ!」

 

 

吐き捨てた言葉とヘルメット越しに頭を叩かれた衝撃音は、あたしを優しく包んでくれた。

 

 

 

 

** **

 

 

「――どんな光景でも最後まで一緒に見ます!」

 

それは脳天に衝撃を与えるような響きを持った言葉だった。

すぐ目の前で良化隊が突進してきているこの状況は、凄惨と表現するしかないくらい、目を覆いたくなるような光景だ。そんなものでも現場の指揮を任されている立場の俺は、目を瞑ることなく見届けなければならない。

出来れば見たくない。そして―――見せたくない。笠原には見せたくないと思った。

こんなことを考えたのは初めてだ。大小なりとも怪我は付き物で、泥臭い場面を体験させてしまっているのに、何を今更と思われるかもしれない。

でも―――出来ることなら命の危険が少ない場所で、笠原の心を守りたい――そんな気持ちになっていたところに、笠原の宣言だ。

 

 

――ホントに、お前には負ける

 

溜め息が零れた。瞬間、俺の中で何かが砕けた音がした。

 

もうやめよう。本当に、やめよう。

笠原を閉じ込めて、隠すように守ろうなんて考えることも。

傷つけないように、と遠慮することも。

部下だから、と躊躇することも―――!!

 

 

 

 

「堂上隊は三番塹壕から周辺を注視。車両を乗り越えてくる奴らにも気を配れ!」

 

部隊の態勢を立て直す支持を出した時だ。良化隊の最前線は、図書隊の盾に文字通りの体当たりを仕掛けてきた。

飛び道具を持たない隊員が力で押し寄せる。それは幾重にも重なって、後ろからの必要以上の圧迫に、前列は堪えきれずに血飛沫を上げて潰れていく。

これほどまでの暴徒を俺は初めて見た。狂っているとしか思えない良化隊の突進に、一瞬だけ目を背けた時、視界の端に嘔吐する隊員の姿が見えた。体を反転させると、俺の斜め後ろで、笠原が地面に向かって両手を着いている。肩で息をしているのを確認すると、それほど酷い嘔吐ではなかったようだ。

 

―― 一人前の図書隊員になったな

 

場違いなくらい、感慨に耽った。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

郁が地面に向かって呼吸を整えていると、黒い影が動いているのが見えた。首だけ回して上空へ目をやると、近くのバスの上に人影が見える。

チカっと光ったのは―――マシンガン?!

 

思考回路が直結するより早く体が動いた。

携行していたサブマシンガンを構えて、片膝を立てたままバスの屋根の上を一直線に狙って引き金を引いた。

バスを越えようとしていた数名の良化隊員は、被弾の勢いで向こう側へと落ちていく。

郁は肩で息をしながら、更に乗り越えて来るかもしれないと思いついて弾倉の交換に取りかかる。

 

空の弾倉を引き抜いた手の甲に、涙が落ちた。それを確認した途端、自分の頬を涙が伝って止めどなく流れていく。

 

―――初めて人を撃った

 

頭に浮かんだ言葉が片隅から離れない。それに呑み込まれるように手が震えて、弾倉の交換が上手くいかない。

 

「あ、あれ?もう、やだぁ!なんで入らないの、よぅ!」

 

声も震えていた。泣いてる自分が悔しくて、唇を噛んで無理矢理に弾倉を押し込めようとしたとき、不意にサブマシンガンを取り上げられた。見ると堂上が二つの銃を抱えていた。

 

「よくやった。―――お前は、よくやったよ」

 

銃を抱えた反対の腕で抱き寄せられ、いつもの『ハンカチ』のように頭を抱えられた。

同時に交戦終了の合図が響き渡る。

まるで授業の終了を告げるような鐘の音に、良化隊は撤収作業へ、図書隊は県展開催のための準備へと誰の指示を待つことなく動き出した。

 

 

 

 

「教官、ありがとうございました」

 

被害確認へ向かおうとしていた堂上の足を止めた郁は、深く頭を下げた。

 

「あたしを特別扱いしないでくれて」

「・・・お前のアレには・・・負けた」

「え?何ですか?」

「分からなくていい」

「えー!気になるじゃないですかぁ。しかも・・・あたしが教官に勝てたんでしょ?」

 

堂上はプッと吹き出して「まあな」と笑った。

 

「そのうち教えてやる」

「教官、それ二度目ですよ。覚えてます?」

「ああ。ちゃんと覚えてるよ。お前には教えてやることが沢山あるんだ」

 

それは清々しい表情だった。

郁は期待するような眼で堂上を見つめる。「お前も教えたことは忘れるなよ」と付け足され、少し膨れて見せてから後片付けをする同僚たちの元へ駆け出そうとした。

 

 

 

 

 

「良化賛同団体のヤツらが、周辺を取り囲んでるぞ!」

 

第一報を持ち込んだ隊員は、すぐに玄田の元へ連れて行かれた。堂上たち特殊部隊のメンバーも後に続いて美術館の展示室へ集まってみると、そこには県知事を含めた県展主催者側が今後のスケジュールについて話し合いを始めようとしているところだった。

知事の側近の中に、郁の父、克宏の姿があった。郁と目が合うと、頬を軽く上げて頷いてくれたのが分かった。

 

「賛同団体の奴らは演説を始めるようで――」

「あなたたちは一体何を考えているんだ!」

 

隊員の説明を聞いていた全員が、ギョッとしながら一点に視線を集中させた。乱入してきたのは『無抵抗者の会』の一団だった。武器を持たずに対話で解決しようという、崇高な思想を持つ団体。だが、武器でもって対抗する図書隊ばかりを責めてくる、不平等な団体だ。

 

「良化隊のあの怪我人はなんですかっ!かなり酷い状態だった」

「おいおい。それは図書隊側の怪我人も見舞ってから言って欲しいものだな」

「正義という大義名分のもとで、銃を持って相手を撃って、英雄気取りか!」

 

特殊部隊の面々から表情が消えた。

図書隊の在り方を批判するその人物に背を向け、玄田の後ろに隠れるようにしていた郁は床の一点を見つめたままだ。そっと郁に近付いた堂上は、その体が小刻みに震えているのを確認して、慌てて手を差し伸べた。腕を掴むと郁が顔を向ける。視線を受けながら堂上は玄田の向こうに立つ無抵抗者の会の竹村を睨み付けた。

 

「誰も好き好んで銃を持ったりはしないでしょうね」

 

一触即発な場に響いた声は県知事のものだった。玄田と竹村の間に割って入るようにして、胸を張って高らかに告げた。

 

「英雄気取りなのは、メディア良化委員会の方ではありませんか?彼らの検閲を賛辞するあなた方のような賛同団体の皆さんも同じですよ。

 検閲抗争が激化したのは、図書隊だけに責任があるのではありません。何より今回、我が県の文化と財産を守ってくれた図書隊に対して、私たちは感謝こそすれ銃を持つことへの批判など出来はしません。

 彼らは、我々に代わって銃を持ち、手を汚してくれているのです。あなた方は彼らに代わってその手を汚す覚悟がおありなのですか?」

 

知事の言葉を聞き、堂上は郁を支えるように腰に手を回した。今日、まさに初めて自らの手を汚した郁は両手で顔を覆っていたのだが、ふと顔から掌を剥がして見つめていた。

郁の掌に涙が落ちていった。

 

「笠原―――聞かなくていい」

 

堂上は囁くように言って、腰に回していた手で郁の頭を引き寄せた。

尚も知事の言葉は続いて、竹村たちに向かって覚悟を問うていた時だった――

 

 

「どけっ!――そこをどけぇぇぇぇ!」

 

 

会場の空気を切り裂くように喚き声が近づき、足音が止まったと同時に銃声が響き渡った。

サブマシンガンを天井へ向けた男を確認すると「全員、伏せろぉっ!」と聴き慣れた声が現実に引き戻す合図をくれる。

 

特殊部隊員は玄田の声に従う。「知事たちも、伏せてください」と指示を聞けば、すぐに対象を守る動きをする。そんな中でいち早く、無抵抗者の会の輩はその場から逃げ出していた。もつれる足を引きずるように駆け出した奴らを見て、玄田は舌打ちをしながら会場の状況を把握した。

全員が床に伏せ、銃を持つ男と玄田だけが対峙する形になっている。

満足そうに笑う玄田は、最優秀作品『自由』を背にした。

 

「お前が狙ってるのはコレか」

 

チラリと視線だけ背後に動かし、男の反応を見た。

 

「俺はここから動かんぞ。撃てるもんなら撃ってみろ!」

 

特殊部隊の面々が息を呑んだ瞬間、男が悲鳴のような叫び声をあげて引き金を引いた。

連射される音を聞きながら、郁は銃口を向けられているであろう玄田を想像して堪らなくなった。「隊長!」と体を起こそうとして、ものすごい力で押さえつけられた。

 

「ド阿呆がっ!動くな!」

「だ、だって!隊長がぁ!」

 

堂上の声が耳元で聴こえていることに気付き、郁は自分の状況を確認する。郁を押さえつけるように体を覆っているのは堂上だった。その分、堂上は銃弾の飛ぶ空間に近い位置にいるのだ。郁は血の気が引く感覚があり、必死になって床と一体化しようとした。少しでも堂上が床に近付くように――絶対に弾が当たらないように――!!

 

間もなく銃弾を連射する音が止んだ。玄田の浅い呼吸が乾いた音に聴こえる。

郁は恐ろしくてすぐに顔を上げられなかった。堂上はどうしているのだろう、と少しだけ首を捻ったとき、玄田の「それで終いか?」との言葉が耳に入り、空気が動く気配がした。

 

どおぅっと玄田が前倒しになり、一気に会場内が動き出した。

郁の身体も軽くなる。堂上がいち早く玄田の元へ走り出したのだ。郁もそれに続くが、倒れる玄田の身体の数歩手前で足が止まった。

 

「頭部、擦過銃創数か所。防弾チョッキ貫通三か所。盲管銃創の可能性あり。四肢貫通、盲管、擦過銃創多数。胴体と合わせて推定二十数か所」

 

真っ先に玄田の元へ辿り着いた小牧が状態の確認をし、手塚は救急車の手配をした。

堂上は応急処置の為の指示を飛ばし、現場は的確な動きをしながらも混乱していた。

その様子を涙を堪えながら必死に唇を噛みしめて見ていた郁は、玄田から離れた場所にいる一団に気が付いた。考える間もなく駆け寄る。

 

「皆さん、ご無事ですか!」

「こちらは大丈夫です。隊長さんは?」

「重体です。出血がひどくて・・・あ、あの、お父さん!お願い、玄田隊長を助けて!隊長はO型なの。輸血とか、必要なら献血とか、とにかく出来るだけのことして欲しいの!」

 

先ほどまで我慢していた涙が溢れて息も苦しいはずの郁が、懸命に懇願する姿に知事が堪らず動いた。

 

「笠原君、玄田さんを赤十字病院へ搬送するよう手配を。細かいことは君に任せる」

「わかりました。では、失礼して」

 

克宏はすぐにケータイで連絡を取り始める。それを確認して知事は郁に向き直る。

 

「今日はあなたたち図書隊の覚悟を見せていただきました。感謝します。県展は後日、ゆっくり見せてもらいます」

「・・・ありがとうございます!」

 

深く頭を下げる郁の肩に手を置き、知事は側近たちと会場を後にした。克宏も連絡を取りながら移動しようと歩き出す。郁には片手を上げ、口パクで「大丈夫だ」と薄く笑顔をみせた。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

佇む郁に知事の側近の一人がやってきて、玄田に関する手配状況を告げて行った。

 

「隊長は赤十字病院に収容されるそうです。献血などの手配も県庁が協力してくれるとのことです」

「笠原、親父さんに頼んだのか」

「えっと・・・そうかな?よく覚えてなくて」

 

困ったように眉を下げた郁は、懸命に先ほどのことを思い出そうとするが、時折玄田の倒れた姿がカットインして上手く再生できない。それでも、郁の報告に少しは安堵の表情を浮かべた隊員たちが、郁の働きに労いの声をかけてくれる。

 

「偶然、父がいたから・・・それだけですから」

「その偶然が、俺たちにはありがたい。お前がいてくれて良かった」

「きょーかん・・・」

 

込み上げるものがあったが、郁は必死に我慢した。もう戦闘中からずっと泣いてばかりなのだ。いくら凄惨な現場だったとしても、初めて人を撃ったとしても、玄田が銃弾に倒れた所に遭遇したとしても、自分は図書隊員なのだから感情のまま泣いては居られない!

 

「あ、あたしもO型だ。献血、行かなきゃ」

「お前はやめとけ。顔色が悪い。そんなんじゃ、針を見ただけで貧血起こして倒れるぞ」

「で、でも・・・」

「隊長のために何かしたいって気持ちはわかる。それはO型じゃない俺たちも同じだ。献血出来ないなら、他の事でやれることをやればいい。まずは、残ったメンバーで警備計画の立て直しだ」

「教官・・・隊長、助かりますよね?」

 

涙は無い。だが不安が滲むような表情は、堂上の中の何かを揺さぶった。握っていた拳を開き、本当は強く抱きしめて伝えたかった想いを片手に込めて郁の頭に乗せた。

髪をくしゃりと混ぜてやると、郁の頬が赤く染まるのが見えた。

 

 

頭ポン 

 

 

 


 

「さあ、仕事するぞ!隊長がゆっくりできるように、ちゃんとした仕事をな」

 

名残惜しそうに離れた手を見送りながら、郁は堂上の背中に追いつこうと走り出した。

 

 

** **

 

 

県展開会の時間が昼に延期され、急いで抗争跡を消す作業をしていると、遠くから叫び声が聴こえてきた。

 

「火事だ!倉庫から出火!!」

 

消防の現場では図書隊は役に立てない。初期消火は現場近くにいた県立図書館の館員が施した。ほどなく消防車の到着で、図書館倉庫には近づくことが出来ず、特殊部隊の皆は状況確認と言う名の野次馬になっていた。

 

「あ!教官!あれ、横田準司令?」

 

担架で運ばれてきたのが横田だと分かったのは、制服の階級章にカミツレと本がそれぞれ二つずつ並んでいたからだ。

中から一緒に出てきた図書館員に詰め寄って状況を確認する。途端に皆、苦い顔をして押し黙った。

 

今回、特殊部隊受け入れに積極的に協力していた横田は、良化賛同団体側に傾倒している須賀原の動向を監視しながら抗争時にも現場に飛び出していた。横田自らが前線に向かうことで、水戸の隊員の士気を上げていたのは間違いない。玄田に通ずるものがある人物だったのだ。

抗争終了後、玄田が銃弾に倒れたあの場に須賀原が不在だったことに疑問を持ち、横田は敷地内を探していたようだ。図書館倉庫内で、県展の予備パンフレットに火をつけようとしていたところを発見した。

 

須賀原はすぐに警察へ引き渡され、消火活動も被害を拡大させることなく済んだ。

郁たちは横田の容態も気になりながら、正午の開会へ向けて準備をすすめた―――

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

県展初日は3時間遅れで開会され、予想以上の来客で大盛況だった。

特殊部隊と水戸の防衛部は、新たに組み立てられた警備計画に基づいてそれぞれの担当箇所を守った。朝の抗争で怪我人が多数出たため、当初よりタイトなスケジュールではあったが、郁にとっては余計なことを考えなくて済むのでありがたかった。

 

そんな一日が終わり、郁は野々宮達と連れ立って寮へ帰ってきた。

予想外だったのは、業務部の数名が玄関先で待ち構えていたこと。また面倒事かと少しイラッとしながら、郁は室内履きに変えて思い切り溜め息を吐いた。

 

「なあに?あたしたちに何か文句でもあるの?今日はご存知の通り、朝から良化隊相手にして、ほんっとに色々あって、気が立ってるから。つまんない話なら容赦なく叩きのめす自信あるけど、どうする?」

「あ、あの、食堂とか洗濯機とか、いつでも自由に使っていいから」

「はぁ?なにそれ」

 

業務部員の提案に、郁の理性はどこかへ吹っ飛んだ。

 

「随分と上からな物言いだよね。本来、寮内の設備はみんなが平等に使えて当たり前でしょ?それをアンタたちが勝手に作ったルールで、防衛部だからって虐げておいて、今更どの口で『自由』なんて言葉を使えるわけ?」

 

郁の脳裏には、県展の最優秀賞作品である『自由』が焼き付いていた。

本来平等にあるべき「自由」を手に入れることは、決して間違ったことではないのだ。野々宮たちにあるべき「自由」も、お願いしていただくものではない。

 

郁の怒りが頂点へと登りつめようとしていた時、後ろから野々宮が制した。

 

「笠原さん!これは、私たちが話し合うべきことです」

「・・・そうだね。あたしは余所者だから。最後まで見届けてはあげられない」

「ありがとう。ちゃんと私たちの思いを伝えます」

 

野々宮は郁に代わって業務部員の前に出た。それに倣って、防衛部の仲間たちも並ぶ。

 

「須賀原館長をはじめとするあなた達が、職域でもってヒエラルキーを作り上げたことを忘れるわけにはいきません。

申し出の通り、これからは寮内の設備を自由に平等に使わせてもらいます。特に私たちを優遇する必要もないです。全て早いもの勝ちでいきましょう。じゃないとただ単に、ヒエラルキーが逆転しただけになってしまうから」

 

まさか野々宮たちがこんなに強く発言するとは思っていなかったのだろう。業務部員は少し唖然として聞いていた。

 

「謝罪も今は受けたくありません。そんな余裕はないんです。みんな、玄田三監や横田準司令のことが心配で。だから当分は普通に暮らしてください。お願いします!」

 

 

ビクビクしながら生活していた野々宮たちとは、見違えるほどの強さを秘めた姿だ。

郁は安堵でホッと息をついた。――もう大丈夫。根拠は無いがそう確信した。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

その朗報が入ったのは、県展三日目の晩だった。横田の意識が回復したというのだ。

女子寮内――特に防衛部の野々宮たちは久しぶりの笑顔を見せた。が、ひとしきり騒いだところで急に声を潜めた。意識が戻らない玄田を心配しているだろう郁の存在を思い出し、遠慮したようだ。

 

「気にしないで!良かったじゃない。横田準司令が回復したんだもん、きっと玄田隊長も戻ってくるよ!」

 

それは野々宮たちに向けた言葉ではあったが、実際は自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。こんな時、一人は辛い。気心の知れた仲間と一緒に居たいと、心の底から感じた瞬間だった。

そんな気持ちに気付いてしまうと、無性に声が聴きたい存在があることを知る。

 

「何もなくても、連絡していいって、言ってたよねぇ」

 

スマホの画面を見つめて、過去の堂上の言葉を思い出しては自分の行動を悩んでいた。

と、その時スマホが震えて、今まさに脳内で登場していた人の名前が画面に浮かんだ。

メールではない。着信だ。

 

「は、はい。笠原です」

『ん、お疲れ』

「お疲れ様です。きょーかん?何かありました?」

『いや、横田二監の意識が戻ったって話があったから――』

「はい、よかったですね。こっちでも皆喜んでました」

『――大丈夫か?』

「何がです?」

『隊長のことが心配で素直に喜べないのに、水戸の奴らの前では一緒に喜んでやったんだろ』

 

郁は片手で口元を覆った。嗚咽が漏れそうになって慌てた。

 

『俺たちと一緒なら、隊長の怪物のような武勇伝をネタに、今回の事も笑いにできるんだがな。女子寮まで出張も、お前を男子寮に呼ぶのも無理な話だ』

「な、なに言ってんですかー!またそんな過保護発言!進藤一正に揶揄われますって」

『ん。確かにな。でも、俺以上にあの人が笠原の相手したくてウズウズしてんだ』

「ふっ、なんですか、それー」

『こういう時は仲間と居たいもんだろ』

 

――もうダメだ

 

郁は頬を伝う涙を笑いながら拭った。

ここに来る前から、この人は女子一人で乗り込むことを心配してくれていた。それはタスクの全員が同じように見守ってくれていて、事あるごとに助け船を出してくれていたのだ。

この人たちと仲間でいられることの幸せを、こんなに感じたことがあっただろうか。

 

「きょーかん?お願いがあります」

『なんだ』

「明日、朝一番に、笠原の頭撫でてください」

 

特に何かを思いついたわけでもない。堂上との時間が欲しくて、それなら何かして欲しくて。自分の気持ちが浮上する、一番の事を思い出しただけのこと。

しかし、お願いを口にしてみると、それは本当に明日以降の自分に気合を入れられる唯一の方法だと思えてならない。

 

『了解』

 

堂上の返事は短く。でも力強く。

最後に「約束な」と付け加えられて、郁のテンションを更に上げた。

 

 

 

 

郁が堂上からエネルギー注入された日、玄田が伝説となる寝言と共に目を覚ましたと報告が入る。

 

――これしきのことで騒ぐな、バカどもがっ!!――

 

 

郁は涙を滲ませながら腹を抱えて笑い、心から安堵した。

仲間と共に喜び合えた瞬間は、堂上の言葉を思い出して、密かに玄田に感謝したのだった。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

その後、県展は会期を終え、特殊部隊は東京へ帰還する日を迎えた。

 

背嚢に詰め込んだ荷物は来た時と何も変わらないが、心に留まっていた澱のようなものはいくつか取り除けた。

両親とのこと、水戸のヒエラルキー、そして堂上への想い―――

 

 

寮を出て特殊部隊員を待つバスへと歩き出すと、背後から「笠原さぁん」と声が飛んだ。

野々宮たちだとすぐに分かったが、郁は振り返ることが出来なかった。

足を止めてその場で待っていると、野々宮たちが走り寄って郁を囲んだ。下から覗き込まれる形で、「笠原さん」ともう一度呼ばれると、郁は溢れる涙を止められなかった。

 

「野々宮ちゃん、ありがとね。ホントに、色々・・・ありがと」

「私たちも笠原さんにお礼が言いたくて!私たちのために、ありがとう」

 

二人はしっかと抱き合った。

 

「訓練・・・これからも続けてね」

「はい。みんなで水戸の防衛部を盛り立てていきます」

「期待してる。みんなの事、東京から見守ってるから」

 

 

 

ねえ、野々宮ちゃん、忘れないで。あたしたちが話したこと。

図書隊の存在する価値は、もしかしたら良化隊があってこそなのかもしれないけれど。

そんな矛盾した状況でも、あたしたちがやるべきことは一つ。

本を、図書館を守ること。そこにあるべき『自由』を守ること。

 

もう、検閲の無かった時代には戻れないから。

図書隊を選んだあたしたちは、ここでしか生きられない。

でもそれは、生きる場所があるってことだ。

あたしたちが生きていける場所があるなら、それを守っていこう。

 

その過程で、辛いこと、逃げ出したくなること、あるかもしれない。

それでも力を振り絞って、あたしたちはここで生きていこう!

 

 

 

お互いに抱擁を交わし、郁は野々宮たちと別れた。

再会の約束は必要無かった。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

目を覚ますと、少し懐かしい天井が視界に広がっていた。

瞼をパチパチとしていると、ニョキッと影が飛び込んでくる。

 

「お帰りぃ」

 

それは黒髪を片側に纏めた柴崎だった。

ガバッと体を起こし、ベッドの上からもう一度柴崎を見る。相変わらずの美人だ。

ふと、柴崎の鏡台に、カミツレの鉢が鎮座しているのが見えた。

 

「カミツレ・・・ありがとね」

「枯れなくて良かったわ」

 

柴崎は図書館から帰寮したところだったようだ。服を着替え始める姿をぼんやりと眺め、未だ覚めない思考回路を何とか回転させようとしてみる。

 

「大丈夫?疲れてるんでしょ。もう一度寝る?それとも食事に―――

「柴崎!!!」

 

澄んだ声を聴いているうちに、郁は何かが繋がった瞬間に出会えた。途端に柴崎を呼んでいた。

 

「な、なに?どうしたの」

「あ、あのね。あたし、柴崎に話があるの」

「なあに?」

 

いつの間にかマグカップには、郁のお気に入りの紅茶が淹れてある。目の前で揺らぐ湯気を見つめていると、柴崎の優しさが染み渡るようで涙が浮かんでくる。

 

図書隊に入ってから今まで、柴崎の存在が郁を支えてきた。

それは仕事上でも、プライベートでも。同じ歳のお姉さん的存在で全面的に甘えることもあれば、時には同期としてお互いを叱咤激励し合う。

ただ一点だけは、郁は心を開き切ることが困難だった。それは堂上との関係だ。

恋愛経験ゼロな郁に対して、美人と評される柴崎はその容姿ゆえ恋愛におけるあらゆるトラブルを体験している。郁から見たら百戦錬磨な柴崎が、堂上を狙っていた過去を郁は知っている。

 

だからこそ、言えなかった。堂上が郁の「王子様」だったことを。

それを知ってからの気持ちの変化を。

なんでも話せる親友だと公言していたのに、肝心な気持ちを話せない―――

 

郁は水戸で自分の中の「嫉妬」を知った。嫉妬した相手が柴崎だった。

それからずっと郁の中で燻る想いを話したい。いや、話さなければいけないと思っている。

 

 

 

柴崎に―――柴崎に話したい。

 

 

 

 

どこからか鐘の音が聴こえた気がした。

 

それは、あたしの中のはじまりの音。

 

GOサインだと思えて仕方がない。

 

 

 

そう思っていいのかな?

 

 

これで正解?

 

 

 

 

 

 

 

「ねえ、柴崎――――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

柴崎の笑顔が輝いて、あたしの心は少し軽くなった。

 

 

それが、あたしの 想いのはじまり――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【おわり】

→本編「最終号 はじまりのla」へ

 

 

 

 

 


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

あとがき

 


終わりました。

でも、続きます・・・

 

というのも、このシリーズは「裏会報シリーズ」と抱き合わせ。

この話を受けてーのー、柴崎目線の裏会報があります。

 

ホントの最後は、裏会報です。

 

 

 

さて。

はじまりシリーズは、タイトルに曲のタイトルを使っています。

「積極」だけは、曲ではなく 短歌 の方の歌ですが。

どのお話も、タイトル曲がお話のテーマとなっています。

興味が沸いたら、聴いてみてくださいm(__)m

 

 

 

 

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最終号 はじまりのla

手紙 2

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